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◆ 歴史 ◆

*** 嵐電のなりたちと変化を続けてきた姿 ***



●大正 7年
 (1918)
京都電燈が合併し嵐山電鉄ができる。
この頃は沿線の遊覧を主とする単線運転の郊外電
車であった。
●大正14年
 (1925)
嵐山電鉄北野線が、北野〜高雄口間を走る。
(距離2.5km)

※電車開通は、村の人々に、幾つかの波紋をなげ
 かけた。この新しい事業を歓迎する人々のなか
 で、先祖伝来の土地を失なうことや歩くことに
 対する馴れ、現状変更することに対する保守性
 は、沿線の田畑・竹薮の住宅地化への逡巡とい
 う形で表れたりした。何度も寄り合いを繰り返
 し話し合われたという。

●大正15年
 2月
高雄口〜帷子ノ辻間、1.7km完成。
四条大宮〜嵐山線と合流。


※高雄口〜鳴滝間の工事の遅れは、高雄口停留所
 西寄りの現在、国道162号線と交差する個所
 にあった「岩」をうつことが困難なためだった
 からである。
●昭和初年 住宅の分譲
藤ノ木・桐ケ渕・瑞穂町などに住宅地が広ってい
き、それまでの純農村の鳴滝は、開通をきっかけ
にして近郊住宅地として第一歩を踏みだすことに
なった。
散髪屋、銭湯、交番などができ「まち」ができあ
がっていった。
●昭和 9年 室戸台風が「常盤駅」に被害をもたらす
●昭和17年 京福電気鉄道株式会社発足
●昭和57年 北野線 ワンマン車の導入


■停留所命名にまつわるエピソード
開通当時地域内にできたのは「高雄口」と「宇多野」であった。
この「宇多野」は、京福電鉄の30年史に記録されているが、
その後間もなく「鳴滝」に変えられたのであろう。

「高雄口」は、鞍馬に遠くても「鞍馬口」の名があるので、高雄
の入口という意味で、これならどの村民も納得がいくだろうとつ
けたのだという。

「宇多野」は、宇多野村を代表してつけたのであろうが、どうい
うわけか人々の記憶には「宇多野」がでてこない。。。

停留所の名前をつけることについても、村の人々の意見を尊重し
ているのは、古くから続いた自然の地域環境に、初めて外からの
力の作用することへの礼儀・心くばりと言えようか。


=こぼれ話=
■太秦の映画「鳴滝組」が乗車する電車
大正12年に関東大震災後に東京の映画撮影所が京都に移転し、
太秦一帯が映画産業のメッカとなった。
よって、当時、監督、俳優、脚本家などは「鳴滝」に住居や別荘
を構えていた人が多く、撮影所(太秦)まで通うのに嵐電を使っ
ていたという。その人たちを「鳴滝組」と呼んでいたそうだ。


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