トップ

◆ 地域の人の暮らしの変化 ◆

*** 近代化していくまち ***



=乗り物の移り変わり=
■駕籠(かご)
 
■人力車
昭和初年嵐山電鉄開通によって姿を消すまで
「人力車」が人々の足になっていた。帳場も
その時まで仁和寺山門前にあり、北野まで徒
歩で行く村の人たちに「二十銭まけるでえ」
と声をかけることもあったそうだ。

はじめは鉄の車輪で、でこぼこ道を走るのは
乗る者も苦労していたが、大正時代(1913)か
ら、ゴム車輪、末期には空気入りのタイヤに
変わり乗り心地はよくなった。

それでも、北野まで出れば市電が走っている
こともあり、よほどのことがない限り人力車
には乗らなかったという。
■自転車
明治21年(1888)に京都市内を走りはじめた
自転車は、後期になって舶来品を乗りまわす
和服姿の男性が、宇多野にもお目見えした。

その後数年経て、一般化しはじめると若者た
ちの中には中古品を、組み立てて乗りはじめ
る者も出てくる。

この頃自転車をコスターと呼んだという。
■自動車
大正中期(1918)には、婚礼の日の花嫁の乗り
物となりはじめていたものの、ほとんど、利
用することはなかった。
■バス
明治36年(1903)市内を走るが、本格的営業
は大正14年(1925)からになっている。

北野まで20分余りで出かけることのできる
村の人々は、この乗り物にそれほど執着もし
ていなかったのに比べ、市内の日帰りを夢み
ていた周山や弓削村の人々の情熱は想像以上
のものがあった。

こうした奥に住む人々の熱意によって、宇多
野の人たちは、市内よりも一年早い大正13
年3月に「乗合自動車」に乗ることができた
のである。
■郊外電車 大正14年(1925)に嵐山電鉄北野線が走る。


=暮らし=
嵐電が開通したその頃、農業を営んでいた人たちには現金収入が
なかったので、今まで自分の足に頼っていた人々にとって、三銭
の運賃は決して廉い金額ではなく、相変わらず電車を横に見て北
野まで歩く人が多かった。

しかしながら、嵐山電鉄の開通後、それまで数百年多分あまり変
動もなく過ごして来た村民の生活・意識・そして習慣は、点とし
て存在していた村を機動力でもって、外とつなげていく役割をし
ていったことはすべての面において、一大変革となったようだ。

村民の目は外へ、外へと広がり、逆に市内のできごと、人間の考
え方などが、それまでの共同体的意識のはざまに入りこみ、希薄
になっていったといえる。

眠りを覚まされたように、急激に生活の基盤が揺れはじめた。

電車開通は、そのきっかけを作ったのである。


トップ