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◆ 人物紹介 ◆

<石河貞政>(1575−1657)
幼にして豊臣秀吉(1537−1598)に出仕し、のちは秀吉股肱 に重臣となり、江州長浜城主に封じられた。秀吉の歿後、徳川家康(1545−1616)にしたがい関ケ原 の役に戦功あり、直参旗本五千石を賜わって江戸に在勤したが、老後、京都にうつり北野今小路に閑居し、 余世を茶道に親しんだ。明歴3年(1657)9月6日、八十三才の高齢で歿した。法名は桂春院殿前壱州 大守安叟禅石大居士である。墓は境内東の墓地にあり、一族歴代の墓も傍らにある。


<藤村庸軒>(1613−1699)
慶長18年(1613)に京都の久田家に生まれた。 久田宗全の父、宗利の弟に当たり、藤村家の養子になり、源兵衛といい、のちに庸軒と称した。 庸軒、反古庵、微翁はほの号である。藤村家は京都の呉服商で、屋号を十二屋といい、 伊勢の藤堂家の御用を務めていた。かなり富裕であったらしく、京都黒谷の西翁院がその 藤村家の建立になることをもっても、財力の程度が知られる。茶道は、はじめ住まいが 同町であった藪内紹智(1536−1627)藪内家に因縁ふかい古田織部(1544−1615)、 あるいは小掘遠州、金森宗和(1584−1656)にも学んだとつたえられるが、 そののち千宗旦(1578−1658)に師事した。茶道指月集に「今宗旦ヨリ利休ノ台子直伝ハ 藤村庸軒一人存命ノ由]とあるように、千家の茶の奥義をきわめ、宗旦門下の四天王(山田宗偏、 杉木普斉、藤村庸軒、松尾宗ニ)であった。 漢学を三宅亡羊(1580−1649)、のちに山崎闇斉に学んで、詩文をよくした。 こうして独自の境地を開いた庸軒の茶系は、山本退庵、北村幽庵、近藤隆賀、吉田空軒、比喜多宗積 などにより庸軒流として、のちに続いた。庸軒は、元禄12年(1699)9月17日、八十七才で 歿した。墓は黒谷西翁院にあり、供養塔は、庸軒の参禅の師、藍渓宗瑛の大徳寺山内大慈院にある。


<狩野山雪>(1590〜1651)
江戸初期の画家。 名は光家。縫殿助(ぬいどのすけ)と称し、 蛇足軒、桃源子とも号した。 狩野山楽の弟子となり、後に婿養子となって、 狩野姓を継いだ。 徳川時代になっても京都にとどまって活躍した 山楽、山雪らは、 江戸を中心に活躍した可能宗家の人々とは異なり 独特な造形感覚で個性的な画風を作り上げた。 歴史や儒学を好む学究的な一面があり、 彼が執筆した日本画家の伝記は、後に子の永納が 引き継いで「本朝画史」として完成させた。


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