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慶長18年(1613)に京都の久田家に生まれた。
久田宗全の父、宗利の弟に当たり、藤村家の養子になり、源兵衛といい、のちに庸軒と称した。
庸軒、反古庵、微翁はほの号である。藤村家は京都の呉服商で、屋号を十二屋といい、
伊勢の藤堂家の御用を務めていた。かなり富裕であったらしく、京都黒谷の西翁院がその
藤村家の建立になることをもっても、財力の程度が知られる。茶道は、はじめ住まいが
同町であった藪内紹智(1536−1627)藪内家に因縁ふかい古田織部(1544−1615)、
あるいは小掘遠州、金森宗和(1584−1656)にも学んだとつたえられるが、
そののち千宗旦(1578−1658)に師事した。茶道指月集に「今宗旦ヨリ利休ノ台子直伝ハ
藤村庸軒一人存命ノ由]とあるように、千家の茶の奥義をきわめ、宗旦門下の四天王(山田宗偏、
杉木普斉、藤村庸軒、松尾宗ニ)であった。
漢学を三宅亡羊(1580−1649)、のちに山崎闇斉に学んで、詩文をよくした。
こうして独自の境地を開いた庸軒の茶系は、山本退庵、北村幽庵、近藤隆賀、吉田空軒、比喜多宗積
などにより庸軒流として、のちに続いた。庸軒は、元禄12年(1699)9月17日、八十七才で
歿した。墓は黒谷西翁院にあり、供養塔は、庸軒の参禅の師、藍渓宗瑛の大徳寺山内大慈院にある。
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