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〜吉田兼好の旧跡 長泉寺 〜

長泉寺
◆ 双ケ岡と兼好法師 ◆
「つれづれ草」の著者、兼好は神祗伯卜部
兼廷の後裔で、父を卜部兼顕といい、後宇
多院に仕えて六位蔵人、左兵衛佐などにな
った。若くして出家し、出家後は比叡山の
横川や山麓の修学院にも住んだが、都に出
て公家武家の間に広く交り、二条家の歌学
をうけて、頓阿、憲運、浄弁と共に和歌四
天王と呼ばれた代表的歌人であった。その
自筆家集が前田家に所蔵されている。
兼好と双ケ岡の関係は、この家集の中に、
 ならびのをかに無常所まうけてかたはらにさくらをうへさすとて
ちぎりをく花とならびのうぃかのへにあはらいくよの春をすぐさむ


とあるによって、晩年は雙びに岡に小庵を結んで終焉の地としたと思われる。
御室の山並から南へ、お椀を伏せて並べたような丸やかな岡が
三つ。北から一の岡、ニの岡、三の岡。まとめて双ケ岡。古書
には雙びの岡とある。岡の頂きに立てば、東に洛中、西に洛西
(嵯峨野)の風光が展望でき、喧騒の都心につかず離れず遠か
らず近からず、巷にあまらずまた山中にあらず、まことに兼好
法師好みに安息静観の地である。兼好法師が双ケ岡に無常所を
設け、「契りをく」の寿歌を読み定めたのは四十八歳ごろとさ
せている。以来六十八歳で歿するまで二十年。この岡の辺に安
住して「あはれ」のおもひに、しみじみと幾世の春を重ね過ご
した自由人兼好の花の生涯が偲ばれる。


■ 兼好法師が晩年を過ごした『長泉寺』 −直筆歌集−

寺内
兼好法師が過ごした部屋
江戸時代になって、徒然草の注釈書、徒然草文段抄(寛文七年刊)巻頭に、
北村季吟は、「兼好の墓は双岡にあるべし」と述べ、同著作の
「菟芸泥赴(つぎふね)」(貞享元年十一月成)巻六には、双岡に、今の
その旧跡のある由が見える。
今、一の岡とニの岡の間の西麓に古井戸があって兼好の旧跡と伝えている。
山城名勝志(宝永二年成、正徳元年刊)巻八に、兼好法師旧跡として、

「元在ニ岡西麓、近世其墓移岡東長泉寺、兼好伊賀国卒」

とある。これによれば、宝永二年の頃(1704)、その墓が長泉寺に
移されたことになるでしょう。


>>像と直筆歌集、家集、徒然草を蔵するお寺<<

●兼好法師像
兼好法師像
兼好法師像
 裏に
 「兼好像徳澗模刻之」と朱書する。
       (江戸中期以後の作)

●直筆歌集
直筆歌集  ここ長泉寺には、寺の什物として
 兼好法師直筆の歌集一巻がある。
 もと壁にはられていたと伝える。
 その歌集には五十八の歌が記され
 ている。しかし、籍書には六十ニ
 首とあり、これは後の補筆である
 らしく、六十首としても二首不足
 である。

●『家集』一冊
家集  家集の巻末に、
 『維時貞享二乙丑年夷則日応
  並岡長泉寺利徹之需書写焉
  岡におふる松の千とせの後
  もなをことの葉いかにちり
  うせめやも』
 とある。
 貞享二年は1685年。鳥子綴葉、
 八行平仮名交り書写。

●『徒然草』一冊
徒然草 徒然草

徒然草は、鳥子綴葉、十行平仮名交り書写、巻末に、

右徒然草は西山仁和寺の辺に雙岳といへる所に長泉寺となん号す
浄土宗之貫院あり昔卜部兼好法師暫隠住の旧跡にて今に墓もあり
となんいつの比よりか万日の念仏を起こして諸人に誓願をすすめ
当住利徹堅固に勤めり信仰の旦越中川氏予に請て云兼好作之まま
此物語を筆して書とあり禿筆甚見苦固辞せんと思へど此詩の中に
もあしき手にても書ちらしたるはよしとゆれば此を思ひ出て且又
過し弥生初二に妻うた姫坂上賀子廿二歳にて往生きし貞松院雅楽
了和大姉とおくり名く又孟夏中に仙洞女一宮無品憲子内親王廿才
にて薨御有予姉故藤大典侍局藤原房子御腹也則台岳院香山良薫尊
儀と申スとともに此寺の本山清浄華院ニ葬ス我も天誉雲龍上人よ
り曜雲院俊誉方隆成覚といふ法名をさづかりぬしかあれば右御両
仏と御菩提の為序にやつつがれも後世のよすがにもやと五六日の
内馳写し附与畢又末かけても万日結願の比ほひ一念の廻向にも預
らん事と嬉しく染筆せりいまだ一校なきまま過り粗此あらんかし
重而以寸隙見合送之耳矣
      貞享五辰天六月五日   参議左大弁三品藤原俊方

とある。これも同じく当時の住職利徹が頼んで書写せしめたもの
であろう。今も長泉寺は、本山清浄華院に属する浄土宗の一院で
ある。なお、長泉寺の僧幾春庵老隠利微の著に、兼好法師伝ニ巻
がある。享保十一年(1726)二月十五日の自序があり、兼好
法師の四百年忌の遠忌を修してこれを著すという。


■ 兼好法師が眠る場所 −兼好塚と歌碑− ■

兼好墓
写真右端の木はこの塚が健立されたときに植えられた
もので、年月を重ね、今では大木に成長している。

兼好塚 兼好法師は観応元年(1350)四月八日伊賀国
で歿したとされているが、「契りをく」の寿歌の
とおり、かねてより自身の終焉地、安息処を双ケ
岡と定めていたので、遺志が果たされてゆかりの
岡の辺に葬られ塚がしつらえられた。もとニの岡
西麓だったが、宝永年間(1704ごろ)現在の
東麓長泉寺墓地内に移され、今に供養されてきた。
兼好塚にかたはらに「契りをく」の歌碑が添えられてあり、
また、同じ心に兼好法師を慕う善定なにがしの
 『成り果てんその身は
  ここに名にしおう花と双びの岡の辺の土』


という歌碑が並ぶのも心ひかれる。

長泉寺境内には、また、

 『我が宿る土はいづくの苔の下 鳳山』

の句碑があり、いずれも兼好法師追慕の有志の集を
来ていることを知る。
歌碑


■ 兼好法師の生きた時代 ■

●弘安五年(1282)兼好生れる。時の執権北条時宗、鎌倉円覚寺
 を創建。

●文保二年(1318)兼好三十六歳。後醍醐天皇即位。

●正中元年(1324)兼好四十ニ歳。正中の変。

●元弘元年(1331)兼好四十九歳。このころ双ケ岡に安住
 元弘の乱。

●元弘ニ年(1332)兼好五十歳。後醍醐帝隠岐配流。楠正成挙兵。

●建武元年(1334)兼好五十ニ歳。建武の中興。鎌倉幕府崩壊。

●建武三年(1336)兼好五十四歳。このころ徒然草成る
 楠正成兵庫に戦死。足利尊氏幕府を開く。南北朝はじまる。

●貞和四年(1348)兼好六十六歳。楠正行四条畷に戦死。

●観応元年(1350)兼好歿、六十八歳。


■ 徒然草と兼好にふれられる『長泉寺』へは・・・ ■

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