この寺の歴史は古く平安時代のはじめにさかのぼる。
もとこの寺は双丘寺といい、天長の頃、右大臣清原夏野がこの地に山荘
を営み、夏野の死後、寺としたものである。
その頃、嵯峨・淳和・仁明の諸帝がしばしばここに行幸され、珠に仁明
天皇は内山に登られ、その景勝を賞し山に従五位下を授けられた。それ
より内山を五位山という。
次いで文徳天皇はいつしか衰えていった。
そして平安時代の末、院政の頃 鳥羽上皇の中宮待賢門院が「仁和寺の
御堂」として、大治四年より天安寺を復興されたのが法金剛院である。
その頃の待賢門院は 鳥羽上皇の中宮であり、崇徳天皇の生母として全
盛を誇っておられた。そして、寺は北に五位山を背に、東西を川で区切
り、中央に苑池を掘り、池に西に西御堂(丈六阿弥陀堂)南に南御堂(九
体阿弥陀堂)、池の東には女院の御所(宸殿)が建てられ、その他、諸
堂伽藍を十一か年にわたって整備された。
それは当時、盛んであった浄土信仰の、西方極楽、弥陀世界を欣求され
此の世に実現されようとしたものである。それで庭園も仁和寺の林賢に
命じ、池の北に滝もつくらせられた。そして後に滝を大徳寺静意に五尺
ばかり高くさせられた。
こうして法金剛院は、洛外の名勝となり、上皇・天皇・公卿の来訪が絶
えなかった。康治元年侍賢門院は発心され、出家得道して、真如法と申
された。
しかし、久安元年四十五才で崩ぜられるや、裏山の五位山に葬られた
(花園西陵)。
その後、上西門院は生母侍賢門院にあやかって、法金剛院で落飾され真
如理と号され、承安ニ年、池の東、御所の南に東御堂(丈六阿弥陀堂)
を建立された。
こうして苑池をさしはさんで、三棟の阿弥陀堂と三重塔、宸殿、水閣等
が軒をならべ、双ケ丘と衣笠山を背にした盛観は、桜・菊・紅葉の四季
おりおりの美観とともに、見事なもので西行をはじめ多くの歌人が侍賢
門院を偲び、上西門院を慕って、この美しさとあわせ山家集・千載集・
玉葉・続古今集に多くの歌をのこしている。
その中の一つ、山家集に、「十月中の十日頃法金剛院の紅葉見けるに、
上西門院おはしますよし聞きて、侍賢門院の御とき思い出でられて、兵
衛殿の局にさしおかせける。
紅葉見て君が袂やしぐるらむむかしの秋の色をしたひて 西行」
とある。
鎌倉時代、漸く衰えかけていた法金剛院を復興したのが円覚十万上人
(導御)である。上人は建治二年、唐招提寺より入り、融通念仏(今の
壬生狂言や嵯峨清凉寺の嵯峨念仏)を広められ、大勢の衆生を済度され
た。その帰依者が十万人になる毎に、大斎会を設けられたので、世に十
万上人と呼んだ(能の「百万」は上人の伝記である)、この上人の徳行
によって、正和五年に一万三千人の衆生の力(摺仏供養)を得て華麗な
までの、厨子入十一面観世音菩薩が造立された。
また法金剛院古文書にみられるだけでも、十一か国、二十か所の荘園を
寄進されているのを見ても、その徳が窺える。
しかし、室町時代と乱世の天正・慶長の震災で、堂宇を失い、元和三年
招提・泉涌寺長老照珍和尚によって、現礼堂・経蔵が建立され、そうし
て昭和四十三年、丸太町通が拡幅されるにあたり、諸堂を現地に移築し
た。また庭園を発掘復原して、滝(青女の滝)をはじめ庭園を特別名勝
に指定された。 |
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