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吉田兼好 徒然草について 「つれづれなるままに、日ぐらしすずりにむかひて、こころ にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」あまりにも有名なこの序文で始まる『徒然草』は『方丈記』、『枕草子』とならんで三大随筆のひとつとして、今でも多くのひとに読まれている文学です。私は、この徒然草をとおして、当時の人々の考え方や理念、また、宗教人としての著者吉田兼好について、しらべてみました。 吉田兼好は1283年に生まれ、彼の家は、彼の卜部兼好という本名の通り、占いにより朝廷に仕えた名家で、兼好の家系は代々京都吉田神社の神官をしていました。吉田神社は平安時代初期の859年に藤原山陰がこの地に藤原家の守護神である春日四神を勧請して創建したもので、奈良の春日大社、京都西山の大原野神社とともに、藤原氏の氏神三社のひとつとされました。 吉田兼好が生まれたのは、蒙古が最後に襲来してから二年後のことで、その翌年には、元寇をしのいだ執権、北条時宗が逝去し、やがて鎌倉幕府は崩壊していきます。このあとに立てられた室町幕府は、1336年に足利尊氏が開いたもので、その年に吉田兼好は『徒然草』全234段を完成させました。 兼好がつかえた後宇多天皇は、後醍醐天皇の父にあたり、二度にわたる蒙古の襲来をのりきった人で、後宇多天皇がなくなった後も、兼好はかまくらの崩壊を間近で見てい、そのためか、ちょうどこの時期に書かれた『徒然草』には、世の無常、人の生死などにかかわる段がおおくみられます。 仁和寺は、宇多天皇が建立したもので、天皇自身が退位後にここに移り、以来何代もの上皇が、退位後に仁和寺の住持をつとめています。この時代、世の中が武士に傾いていく中で、寺院の地位は零落し、その状況も徒然草の主題として取り上げられています。 もともと『徒然草』は兼好が「そこはかとなく」紙にかいては、壁にはって壁紙としていたものを、後に発見した人が、現在の順序に並べたものだといわれています。 『徒然草』は、大まかに見て4つの視点から見ることができます。 ・ 兼好自身の考え方が主 ・ 習慣、地方のものについての知識が主 ・ 聞き知った出来事を書き連ねた一種の説話 ・ ものの、一般的な見方と、それについて著自身のものの考え方 あくまでも「つれづれなるままに」かかれたものなので、このなかに分けられないものもありますが、たいてい、いくつかの段にまとめて似た様な趣旨のことがらが書かれています。 一本、通った筋というものがあるのならば、それは「無常感」であろうが、しかも滑稽味があふれているという点、それが実質的には実践的な道徳をといている――ある人が、「徒然草」にそう解説をつけています。 吉田兼好はもともと「かねよし」と名乗り、武士でしたが、30代で官を辞し出家し、比叡山にのぼって仏道修行をします。僧としての修行もしていましたが、文事にも携わっていて、必ずしも僧としては傑出した人ではなかったということです。 出家とはいっても、寺の生活に浸りきりになり、山の上から汚れた人間の生活を眺めているわけではなく、むしろ彼も、俗世間から離れず俗塵にまみれた自分自身を脇からながめているという、いわば「隠者」と呼ばれる生活にあったといわれています。 「徒然草」と同じ三大随筆に類される、「方丈記」を書いた鴨長明や、西行などの時代に「隠者」としての階級が成立し、その後兼好を経て、近代では松尾芭蕉につながっていくといいます。外形は僧侶の格好が最も多く、また、長明が「その家の(中略)広さはわずかに方丈、高さは七尺がうちなり。」とかいているように簡素な生活がおおかったといわてれています。 兼好は、『徒然草』第七段で、「四十(そとじ)に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。」と述べていますが、彼自身は1350年に68歳でなくなっています。 もともと宮中につかえていた吉田兼好は、教養もあり、和歌などの造詣もふかく、また宮中の習慣にもつうじていたとおもわれます。その知識や、天皇のそばでみた幕府の盛衰などが、『徒然草』の下地になってい、「徒然草」を一種の知識宝典といわしめるまでにいたったのでしょう。『徒然草』はその時代の風俗や習慣をつたえるとともに、生活のなかにとけこんだ宗教感や、それがもたらすいわれのない事柄のばかばかしさを、どこか冷めた目でつたえているのだとおもいます。 |